スタジオジブリ制作『ゲド戦記』(現在公開中)に対して、原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンが自分の公式サイトでコメントを出しました。
下記に、いち早く、要約があがっています。
●★究極映像研究所★
http://bp.cocolog-nifty.com/bp/2006/08/ursula_k_le_gui.html
アメリカでの劇場公開は、先に作られたテレビシリーズ契約が切れるまで待つ必要があり、それは2009年以降であるとのこと。
にもかかわらず、この時点で公式コメントが出たのは、ル=グウィン側に、どうしても発言しなければという強い意志があったようです。
●公式サイト内の記事
http://www.ursulakleguin.com/GedoSenkiResponse.html
ネット上には日本人の有志が日本語に訳した文章を紹介しているサイトもありますが、現在、まだ不充分な意訳のままの箇所もあるようなので、最も正確に意味をとるためには、ル=グウィン本人の文章を読むことを強くお薦めします。以下、長くなるので「続きを読む」表示にしておきます。
下記に、いち早く、要約があがっています。
●★究極映像研究所★
http://bp.cocolog-nifty.com/bp/2006/08/ursula_k_le_gui.html
アメリカでの劇場公開は、先に作られたテレビシリーズ契約が切れるまで待つ必要があり、それは2009年以降であるとのこと。
にもかかわらず、この時点で公式コメントが出たのは、ル=グウィン側に、どうしても発言しなければという強い意志があったようです。
●公式サイト内の記事
http://www.ursulakleguin.com/GedoSenkiResponse.html
ネット上には日本人の有志が日本語に訳した文章を紹介しているサイトもありますが、現在、まだ不充分な意訳のままの箇所もあるようなので、最も正確に意味をとるためには、ル=グウィン本人の文章を読むことを強くお薦めします。以下、長くなるので「続きを読む」表示にしておきます。
これまで日本のファンは、スタジオジブリの公式発表を通してしか、制作過程の状況を知り得ませんでした。が、原作者の公式コメントが出たことで、今まで伏せられていたさまざまな情報が読み取れます。
個人的には、新鮮な驚きがあったのは以下の部分です。
In order to have the freedom of imagination he ought to have in making his film, I suggested that Mr Miyazaki might use the period of ten or fifteen years between the first two books: we don't know what Ged was doing in those years, aside from becoming Archmage, and Mr Miyazaki could have him doing anything he liked.
(There is no other film maker to whom I would make such a proposition.)
ル=グウィンが映画化の話をもちかけた相手はあくまでも宮崎駿氏であり、他の人ではないことは知っていました。が、ここまでの提案があったとは知りませんでした。ル=グウィンは以下のように言っています(大意)
「駿氏に想像の自由を持ってもらうため、私(ル=グウィン)が提案したのは、第1巻(「影との戦い」)と第2巻(「こわれた腕環」)の間にある(小説の展開上の)10〜15年の空白期間を、駿氏のオリジナル・ストーリーとして描くために利用してもらうことだった」
そして、そのような依頼は、他の映画監督に対してはこれまで一度もしたことがないとも述べています。この文章だけで、ル=グウィンが宮崎駿氏をどれほど高く評価し、期待を寄せていたかがわかります。
(その少し前のフレーズで、ヴォンダ・N・マッキンタイア――日本のSFファンにはお馴染みの作家ですね――から『となりのトトロ』を薦められて観て感動し、氏を黒澤明やフェリーニと並ぶ天才だと思ったと告白しています)
もしこれが実現していたら、私たちは、どれほど素晴らしい映像を見ることができたのか。
この申し出を、体力的な理由から駿氏が断ってしまったことが、今回のつまずきの始まりだったのかもしれませんね。
ル=グウィンは自分の作品を好きにしていいと確かに言いましたが、それは自分が小説の形にしていない空白パートを、宮崎駿氏が監督して作るという条件があってのことで、他の監督にそれを許したわけではなかったようです。今回のジブリ側の対応は、それを全作品に対する分解・再構築(そして、ジブリ独自の解釈の付与)への許可と解釈しているように感じられます。このあたりの行き違いや思惑に関しては、まだ公開されていない情報がたくさんありそうです。
実際の映画は、原作とは全く方向性の異なる作品になってしまいました。ル=グウィンのコメントは、それに対してかなり厳しい批判を行っています。
(挿入歌やゲドの声はよかったと言っている。農作業の描写や、ドラゴンが羽をたたむ優雅な描写も評価している)
なお、現在発売中の『THE ART OF TALES from EARTHSEA ゲド戦記』(徳間書店/ジブリ THE ART シリーズ)という画集では、この映画の初期設定ラフ画を見ることができます。この初期設定の絵のほうが、完成フィルムよりも、はるかに原作のイメージに近いのではないかと個人的には思います。なぜこのままでやらなかったのだろう、この絵柄で作って欲しかったと感じるほどです。クモのイメージも、私は、こちらのほうが好みです。

『THE ART OF TALES from EARTHSEA ゲド戦記』(徳間書店/ジブリ THE ART シリーズ)
個人的には、新鮮な驚きがあったのは以下の部分です。
In order to have the freedom of imagination he ought to have in making his film, I suggested that Mr Miyazaki might use the period of ten or fifteen years between the first two books: we don't know what Ged was doing in those years, aside from becoming Archmage, and Mr Miyazaki could have him doing anything he liked.
(There is no other film maker to whom I would make such a proposition.)
ル=グウィンが映画化の話をもちかけた相手はあくまでも宮崎駿氏であり、他の人ではないことは知っていました。が、ここまでの提案があったとは知りませんでした。ル=グウィンは以下のように言っています(大意)
「駿氏に想像の自由を持ってもらうため、私(ル=グウィン)が提案したのは、第1巻(「影との戦い」)と第2巻(「こわれた腕環」)の間にある(小説の展開上の)10〜15年の空白期間を、駿氏のオリジナル・ストーリーとして描くために利用してもらうことだった」
そして、そのような依頼は、他の映画監督に対してはこれまで一度もしたことがないとも述べています。この文章だけで、ル=グウィンが宮崎駿氏をどれほど高く評価し、期待を寄せていたかがわかります。
(その少し前のフレーズで、ヴォンダ・N・マッキンタイア――日本のSFファンにはお馴染みの作家ですね――から『となりのトトロ』を薦められて観て感動し、氏を黒澤明やフェリーニと並ぶ天才だと思ったと告白しています)
もしこれが実現していたら、私たちは、どれほど素晴らしい映像を見ることができたのか。
この申し出を、体力的な理由から駿氏が断ってしまったことが、今回のつまずきの始まりだったのかもしれませんね。
ル=グウィンは自分の作品を好きにしていいと確かに言いましたが、それは自分が小説の形にしていない空白パートを、宮崎駿氏が監督して作るという条件があってのことで、他の監督にそれを許したわけではなかったようです。今回のジブリ側の対応は、それを全作品に対する分解・再構築(そして、ジブリ独自の解釈の付与)への許可と解釈しているように感じられます。このあたりの行き違いや思惑に関しては、まだ公開されていない情報がたくさんありそうです。
実際の映画は、原作とは全く方向性の異なる作品になってしまいました。ル=グウィンのコメントは、それに対してかなり厳しい批判を行っています。
(挿入歌やゲドの声はよかったと言っている。農作業の描写や、ドラゴンが羽をたたむ優雅な描写も評価している)
なお、現在発売中の『THE ART OF TALES from EARTHSEA ゲド戦記』(徳間書店/ジブリ THE ART シリーズ)という画集では、この映画の初期設定ラフ画を見ることができます。この初期設定の絵のほうが、完成フィルムよりも、はるかに原作のイメージに近いのではないかと個人的には思います。なぜこのままでやらなかったのだろう、この絵柄で作って欲しかったと感じるほどです。クモのイメージも、私は、こちらのほうが好みです。

『THE ART OF TALES from EARTHSEA ゲド戦記』(徳間書店/ジブリ THE ART シリーズ)
この記事へのコメント
拙Blog、ご紹介いただきありがとうございます。稚拙な訳なので冷や汗です。
>>10〜15年の空白期間を、駿氏のオリジナル・ストーリー
>>として描くために利用してもらうことだった
これ、竜王となるところとか、いろいろと膨らむ展開が期待できますね。活劇的には凄いシーンが期待できるので、ル=グウィンも宮崎の絵で観てみたかったのかもしれませんね。
何故宮崎駿がこの提案に興味を持てなかったのかが気になります。よほど次の作品への想い入れが強いか、別の理由か、、、。
>>ヴォンダ・N・マッキンタイヤ――日本のSFファンには
>>お馴染みの作家ですね――から『となりのトトロ』を薦
>>められて観て感動
ル=グウィンとマッキンタイヤ―が並んで『トトロ』を観るシーンを想像するとほほえましいですね(^^;)。
>>10〜15年の空白期間を、駿氏のオリジナル・ストーリー
>>として描くために利用してもらうことだった
これ、竜王となるところとか、いろいろと膨らむ展開が期待できますね。活劇的には凄いシーンが期待できるので、ル=グウィンも宮崎の絵で観てみたかったのかもしれませんね。
何故宮崎駿がこの提案に興味を持てなかったのかが気になります。よほど次の作品への想い入れが強いか、別の理由か、、、。
>>ヴォンダ・N・マッキンタイヤ――日本のSFファンには
>>お馴染みの作家ですね――から『となりのトトロ』を薦
>>められて観て感動
ル=グウィンとマッキンタイヤ―が並んで『トトロ』を観るシーンを想像するとほほえましいですね(^^;)。
BPさん、こんにちは。
宮崎駿さんが断った理由は、ご本人が沈黙しているので私たちの憶測を出るものではありませんが……
「ハウル」で体力と気力をかなり使ってしまったのが、理由のひとつではないかと私は思っています。
特に細田守監督の途中降板が、精神的にもかなりきつかったのではないかと。
あと、ジブリが徳間書店から独立したことが、制作体勢に影響している部分もあるように感じます。
ピクサーの場合もそうでしたが、会社として独立すると株価の安定ということが一番の問題になるので、短期間でこれまでの質を落とさずに映画を作るという、ものすごくしんどいスケジュールになり(ディズニーのような大会社以外のスタジオでは、映画公開時だけ株価が上がり、あとはドーンと下がってしまうという現象が起きるので、そこを改善するようにと株主から要求されてしまう) あれやこれやの絡みで、いまの自分にはとてもゲド戦記という素材を支えきれない、中途半端にやるぐらいなら自分はやらない、ということだったのかもしれませんね。
いずれにしても、ジブリは早急に、ル=グウィンが納得のゆくように説明をしてあげて欲しいですね。アメリカ公開までは時間があるのですから、映画自体のリテイクという手段もあると思います。
> ル=グウィンとマッキンタイヤ―が並んで『トトロ』を観るシーンを想像するとほほえましいですね(^^;)。
(^^)ほほえましいですよね。
SFファンから見ると、夢のように美しい場面だなぁと思ってしまいます。
宮崎駿さんが断った理由は、ご本人が沈黙しているので私たちの憶測を出るものではありませんが……
「ハウル」で体力と気力をかなり使ってしまったのが、理由のひとつではないかと私は思っています。
特に細田守監督の途中降板が、精神的にもかなりきつかったのではないかと。
あと、ジブリが徳間書店から独立したことが、制作体勢に影響している部分もあるように感じます。
ピクサーの場合もそうでしたが、会社として独立すると株価の安定ということが一番の問題になるので、短期間でこれまでの質を落とさずに映画を作るという、ものすごくしんどいスケジュールになり(ディズニーのような大会社以外のスタジオでは、映画公開時だけ株価が上がり、あとはドーンと下がってしまうという現象が起きるので、そこを改善するようにと株主から要求されてしまう) あれやこれやの絡みで、いまの自分にはとてもゲド戦記という素材を支えきれない、中途半端にやるぐらいなら自分はやらない、ということだったのかもしれませんね。
いずれにしても、ジブリは早急に、ル=グウィンが納得のゆくように説明をしてあげて欲しいですね。アメリカ公開までは時間があるのですから、映画自体のリテイクという手段もあると思います。
> ル=グウィンとマッキンタイヤ―が並んで『トトロ』を観るシーンを想像するとほほえましいですね(^^;)。
(^^)ほほえましいですよね。
SFファンから見ると、夢のように美しい場面だなぁと思ってしまいます。
2006/08/16(水) 08:57 | URL | 上田早夕里#mQop/nM.
上田さん、こんばんは。コメント、ありがとうございます。
もう少し続けさせていただいて、よろしいですか。
>>宮崎駿さんが断った理由は、ご本人が沈黙しているので
>>私たちの憶測を出るものではありませんが……
最近、第四巻を読んで、僕もひとつ憶測(と言うより邪推)をしてしまいました。
第四巻は、家庭の女性の役割について非常に男にとっては痛切な言葉が出てきます。例えば息子のヒバナについて、テナーの以下の言葉。
>>おりてくるとヒバナは朝ご飯を食べたいと言い、じっとすわって
>>待っていた。ヒバナの父親はいつも母親にかしずかれ、妻にかし
>>ずかれ、娘にかしずかれていた。父親ほどの男でもないのに。そ
>>のことをわからせてやらなきゃいけないのだろうか。
>> わたしはあの子を一人前の男になるように育てなかった。失敗
>>よ。育てそこなったの。(P349-350)
聞くところでは、宮崎氏はアニメーション制作にがむしゃらで家庭をかえりみることが少なかったとのこと。もしかしたら映画化企画の挫折後に出版された第四巻を読まれて、何か感じられるところがあったのではないでしょうか。
端的に言うと、こういった女性的な感性からの本質的な問いかけを自分は受け止めて映像化ができるのか、といった自問。
僕は少なくともこの小説を読んで、大賢人でなくなったゲドの生活とかこういった視点のセリフとかで、女性の視点から痛烈に男に対して言われたような気がして、身につまされて衝撃を受けた部分もあったので、こんな邪推をしてしまいました。
『ゲド戦記』、ファンタジーの古典と思って最近読み始めたのですが、いろんな意味で現代的で素晴らしい作品ですね。で、第四巻はネビュラ賞を採っているという、、、なんか凄いです。
もう少し続けさせていただいて、よろしいですか。
>>宮崎駿さんが断った理由は、ご本人が沈黙しているので
>>私たちの憶測を出るものではありませんが……
最近、第四巻を読んで、僕もひとつ憶測(と言うより邪推)をしてしまいました。
第四巻は、家庭の女性の役割について非常に男にとっては痛切な言葉が出てきます。例えば息子のヒバナについて、テナーの以下の言葉。
>>おりてくるとヒバナは朝ご飯を食べたいと言い、じっとすわって
>>待っていた。ヒバナの父親はいつも母親にかしずかれ、妻にかし
>>ずかれ、娘にかしずかれていた。父親ほどの男でもないのに。そ
>>のことをわからせてやらなきゃいけないのだろうか。
>> わたしはあの子を一人前の男になるように育てなかった。失敗
>>よ。育てそこなったの。(P349-350)
聞くところでは、宮崎氏はアニメーション制作にがむしゃらで家庭をかえりみることが少なかったとのこと。もしかしたら映画化企画の挫折後に出版された第四巻を読まれて、何か感じられるところがあったのではないでしょうか。
端的に言うと、こういった女性的な感性からの本質的な問いかけを自分は受け止めて映像化ができるのか、といった自問。
僕は少なくともこの小説を読んで、大賢人でなくなったゲドの生活とかこういった視点のセリフとかで、女性の視点から痛烈に男に対して言われたような気がして、身につまされて衝撃を受けた部分もあったので、こんな邪推をしてしまいました。
『ゲド戦記』、ファンタジーの古典と思って最近読み始めたのですが、いろんな意味で現代的で素晴らしい作品ですね。で、第四巻はネビュラ賞を採っているという、、、なんか凄いです。
> 端的に言うと、こういった女性的な感性からの本質的な問いかけを
> 自分は受け止めて映像化ができるのか、といった自問。
ああ、これはあるかもしれませんね。
宮崎駿さんのように自分の信条がはっきりしている方は、こういう部分の葛藤で、深刻に悩んでしまうことがあるかもしれない。仕事なんだからとりあえず作っておけばいい――という考え方のできない方ですものね。自分の中で何か具体的な目標がないと作れないという話を、「カリオストロ城」のときにも仰っていましたし。精神的な意味での錦の御旗がないと作れないんだと。
(カリオストロは、若手の技術向上のために作ったのだそうで……)
ゲドの第四巻はリアルタイムで読みましたが、邦訳された当時、日本では賛否両論が激しく飛び交いました。フェミニズム的な色合いが濃くなっていたこともありますが、それまで作品の主題を引っ張ってきた「魔法」という存在に対して、女性キャラクターを通して疑いの目を向けさせるなど、三巻までの常識をあえて意図的に破壊していった部分がかなりあると思います。
「これはゲド戦記ではない、私にとってのゲド戦記は三巻まで!」と言う読者がいる一方で、「ここまでやってしまうル=グウィンはすごい」と全面的に支持する読者も少なくありませんでした。歳をとってから読むとしっくりくるという方もいますね。私もゲド戦記は遅ればせながら大人になってから読んだくちなので、第四巻にはあまり抵抗はありませんでした。人生の黄昏期にテナーと静かに暮らすゲド……その物語が苦渋(ゲドの力の消失)とともに語られるところも、ル=グウィンならではと思います。
第四巻は、一般的なエンターテインメントの常識からは外れているのかもしれません。が、エンターテインメントの枠を広げるという意味では、現代では、ここまで範疇に入れるべきではないかとも思います。読者の嗜好も多様化が進んでいるのですから、それに答えるべく枠を外し世界観を広げてゆくことは、現役作家に課せられた義務でもあるでしょうね。
> 自分は受け止めて映像化ができるのか、といった自問。
ああ、これはあるかもしれませんね。
宮崎駿さんのように自分の信条がはっきりしている方は、こういう部分の葛藤で、深刻に悩んでしまうことがあるかもしれない。仕事なんだからとりあえず作っておけばいい――という考え方のできない方ですものね。自分の中で何か具体的な目標がないと作れないという話を、「カリオストロ城」のときにも仰っていましたし。精神的な意味での錦の御旗がないと作れないんだと。
(カリオストロは、若手の技術向上のために作ったのだそうで……)
ゲドの第四巻はリアルタイムで読みましたが、邦訳された当時、日本では賛否両論が激しく飛び交いました。フェミニズム的な色合いが濃くなっていたこともありますが、それまで作品の主題を引っ張ってきた「魔法」という存在に対して、女性キャラクターを通して疑いの目を向けさせるなど、三巻までの常識をあえて意図的に破壊していった部分がかなりあると思います。
「これはゲド戦記ではない、私にとってのゲド戦記は三巻まで!」と言う読者がいる一方で、「ここまでやってしまうル=グウィンはすごい」と全面的に支持する読者も少なくありませんでした。歳をとってから読むとしっくりくるという方もいますね。私もゲド戦記は遅ればせながら大人になってから読んだくちなので、第四巻にはあまり抵抗はありませんでした。人生の黄昏期にテナーと静かに暮らすゲド……その物語が苦渋(ゲドの力の消失)とともに語られるところも、ル=グウィンならではと思います。
第四巻は、一般的なエンターテインメントの常識からは外れているのかもしれません。が、エンターテインメントの枠を広げるという意味では、現代では、ここまで範疇に入れるべきではないかとも思います。読者の嗜好も多様化が進んでいるのですから、それに答えるべく枠を外し世界観を広げてゆくことは、現役作家に課せられた義務でもあるでしょうね。
2006/08/18(金) 09:39 | URL | 上田早夕里#mQop/nM.
上田さん、こんぱんは。
出版当時の評価の情報、ありがとうございます。凄く知りたかったので僕にとっては貴重な情報です。
>>「ここまでやってしまうル=グウィンはすごい」と全面的に支持
>>する読者も少なくありませんでした。
僕は、まさにこれ。
第一部から三部はあきらかに平易に子供にも読めるように書いてますね。それが四部でこうした展開へ持っていくというのは、なかなか凄いと思います。
20年の間に大人になったかつての読者へむけて書いたのでしょうか。
>>読者の嗜好も多様化が進んでいるのですから、それに答えるべく
>>枠を外し世界観を広げてゆくことは、現役作家に課せられた義務
>>でもあるでしょうね。
形態はファンタジーなのに、第四部がSFとして評価されたのは、まさにこの世界観の拡張があったからなのでしょうかね。ネットでネビュラの選評を探したのですが、見つからず確認できませんでしたが、おそらく受賞はそういう理由なのでしょうね。
出版当時の評価の情報、ありがとうございます。凄く知りたかったので僕にとっては貴重な情報です。
>>「ここまでやってしまうル=グウィンはすごい」と全面的に支持
>>する読者も少なくありませんでした。
僕は、まさにこれ。
第一部から三部はあきらかに平易に子供にも読めるように書いてますね。それが四部でこうした展開へ持っていくというのは、なかなか凄いと思います。
20年の間に大人になったかつての読者へむけて書いたのでしょうか。
>>読者の嗜好も多様化が進んでいるのですから、それに答えるべく
>>枠を外し世界観を広げてゆくことは、現役作家に課せられた義務
>>でもあるでしょうね。
形態はファンタジーなのに、第四部がSFとして評価されたのは、まさにこの世界観の拡張があったからなのでしょうかね。ネットでネビュラの選評を探したのですが、見つからず確認できませんでしたが、おそらく受賞はそういう理由なのでしょうね。
ゲド戦記がファンタジー作品でありながらSFとしても評価されるのは、作中の「魔法」を「科学」(あるいは「科学技術」)に置き換えて読むことが可能だからでしょうね。今回映画化された第三巻「さいはての島へ」に出てくる生と死の境界の石垣を崩す話などは、生命操作や不死テクノロジーなどを連想させます。ストレートに科学用語を使って書けば、一種のハザードものですよね。SFも書いているル=グウィンならではの展開だと思います。
ファンタジーだから子供でも読めるように書いてはいますが、たとえば第一巻「影との戦い」の影も、ユング心理学的に「影=シャドウ」ととらえれば、シャドウと意識の融合というのは、大人でも一生繰り返し続けねばならない課題です。自己の内部にある新しいシャドウと出会うたびに、それを融合するために戦う……それが生涯成長し続けてゆくということですから、「影との戦い」は思春期に特有の内面的な戦いを描いているだけでなく、大人が読んでも感動する普遍性を持っていると言えますよね。
ファンタジーだから子供でも読めるように書いてはいますが、たとえば第一巻「影との戦い」の影も、ユング心理学的に「影=シャドウ」ととらえれば、シャドウと意識の融合というのは、大人でも一生繰り返し続けねばならない課題です。自己の内部にある新しいシャドウと出会うたびに、それを融合するために戦う……それが生涯成長し続けてゆくということですから、「影との戦い」は思春期に特有の内面的な戦いを描いているだけでなく、大人が読んでも感動する普遍性を持っていると言えますよね。
2006/08/19(土) 12:38 | URL | 上田早夕里#mQop/nM.
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